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山村御流圓照寺と修学院離宮

yuenono8787

山村御流の研究会は、奈良の山村町にある圓照寺で行われます。バス停から圓照寺に至るまでになだらかな参道があり、竹林や常緑樹の森の間を縫うように登るのです。木漏れ日が遠く横浜から通ってきた私を癒してくれます。その参道と修学院離宮がとてもよく似ているというのです。それもそのはず、修学院離宮は、圓照寺を建立された文智女王の父君、後水尾上皇(1596年~1680年)が造られたからなのです。文智女王は修学院離宮の地に小庵を建てられ、住まわれていたこともあります。面影を圓照寺に投影されたのでしょうか。

修学院離宮を造営した後水尾上皇は多彩な趣味をもつ文化人でしたが、同時に、徳川幕府がその力をゆるぎないものにした時期の天皇でもありました。後水尾天皇は、徳川二代将軍秀忠の末娘、和子を中宮としましたが、朝廷に対する幕府の圧力があまりに激しいため、紫衣事件をきっかけに、徳川幕府に何の相談もなくわずか7歳の興子内親王に譲位しました。(1629年)

それ以降、上皇はいくつかの場所に山荘を試作していますが、上皇自らの構想のもと1661年に「修学院離宮」を完成させました。比叡山の麓に近い修学院の地に営んだ行楽のための施設は、建物より庭が主体となったもので、山の中腹に大規模な堤をこしらえて、舟遊びための大きな池を作り、水面に出た尾根を利用して中島としているなど、自然の地形を生かした大庭園でした。すなわち、自然の風景を縮小して表現するところに、造形上の特徴があったのです。また、池庭の周囲にはいくつもの茶屋や茶室が点在し、詩歌や茶の湯を楽しむ場ともなっていました。すなわち、王朝文化の伝統にのっとった舟遊びや風流を受け継いだ池庭なのです。

朝廷と幕府の力関係が明らかに幕府に傾いた時、上皇は王朝のみやびへの憧憬とそれへの回帰願望を修学院離宮に投影されたのではないでしょうか。


 
 
 

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